ボブディランがノーベル賞受賞を受け入れ?
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ボブディランがノーベル賞受賞を受け入れた。村上春樹の受賞を待ちわびた人たちも、彼の受賞ならと皆心から祝った。2週間の沈黙はあったが、「ノーベル賞の知らせに言葉を失った」と本人も喜んでいるということだ。けれども、私はただただがっかりしてしまった。
黒人差別を歌った『風に吹かれて』は、公民権運動の讃歌になった。「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか」「人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか」「男はどれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか」「山が海に流されてなくなってしまうのに、どのくらいの時間がかかるのか」「答えは風に吹かれている」
反戦、反権威のシンボルだったボブディランだからこそ、ノーベル賞なんていう権威の象徴ともいえる賞を拒否するものと思っていたし、これを拒否し辞退したら、ボブディランは本物だと心から『かっこいい』と賞賛していた。そもそもノーベルは戦争に使われるダイナマイト製造会社の創業者なのだ。
2週間の沈黙には確かにいろいろなことがあったのだろう。受け入れは、苦渋の選択だったのかもしれない。結局ボブも普通の人間になってしまったのか。
私たち普通の人間は、人から褒められたり、何か賞をもらうとやはりうれしいものだ。ノーベル賞とレベルは全く違うが、私も今回、2年連続で『Best Doctors』に選出された。全国の医師31万人中の6000人の一人に選ばれたのだから、最初は確かにとても光栄なことと嬉しかった。これまでやってきたことが間違いではなかったことが証明されたような気がした。その賞の楯を院内に飾ろうかとも思っていた。しかし待てよ。飾って人からの賞賛を受けようという魂胆はちょっと違うんじゃないか。その賞そのものに何の意味があるのか。本物の医者とは一体何なのか。だいいち、賞をもらうために医者という仕事をしている訳ではないのだ。患者さんの為に何ができるかを追求し、共にザイルを組んで困難な岩壁を乗り越え山頂を目指す。そして無事、下山してくること。ただそれだけなのだ。他人から賞賛されても、医者としての技量が上がる訳でもない。ただ1枚の紙切れなんかより、一人ひとりの患者さんの笑顔のほうが輝かしい。驕らず、自重献身(仙台一高の校訓)。ただ自分の選んだ道を進むだけさ。『答えは風に吹かれている』
記事の投稿日:2016年11月02日