真剣に遊ぶ(2010.10.12)
column | 真剣に遊ぶ(2010.10.12) |
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この10月連休中、中学生になる子どものソフトボール新人戦があった。負けて悔しかったのだろうか。一生懸命になって頑張るということ、今しか出来ないことに集中するということがどんなに大切かをまだ理解していないようだった。時間はこれからたくさんあるからいいかもしれない。いずれ分かることなのでそれでいいかもしれない。しかし親からすると、そんな大切な事に気づかないで今を大事にしていない姿を見るともどかしくなってくる。子どもは子どもなりに精一杯やっているのかもしれないが、それが伝わってこないと思うのは自分だけだろうか。どの親もそう感じているのではなかろうか。
先日、城整山の会の懇親会があった。先月行った槍ヶ岳の報告会だった。共通の趣味があって、そこで楽しく語り合える仲間がいるというのは幸せなことだ。でも自分には子どもに対して感じる様な不安を持っていた。刹那的にその時を楽しめばそれでいいのだろうか。これから城整山の会はどこへ向かうのだろうかと。そんなに構えないで肩肘張らずに楽しめばいいのだよと、言われてしまえばそれはそうなのだが、自分の中では得体の知れないモヤモヤとしたものが渦巻いていた。
そもそも人は何のために山に入るのだろうか。山は遊びにしか過ぎない。
それは釣りでも自転車でもゴルフでも趣味となるものは皆同じだ。でも今回の槍のように、遊びなのに何で山に行くとこんなに辛いのだろうか。辛いのに何で山に入るのだろう。遊びって辛いものなのだろうか。
でも辛いからこそ、感動があるのだと思う。ただ遊べばいいのではなく、『真剣に遊ぶ』からこそ感動があるのだ。辛いけれども何かをやり遂げる事に意味があるのだ。単独行動でも感動は得られるが、同じ感性でその場の感動を分かち合え、共有できる仲間がいると感動は倍増する。その仲間がいるからこそ頑張りも利くし成し遂げることができるのだ。真剣に遊ぶためにはやはり努力しなければならない。遊びは人生そのものといってもいいかもしれない。人の生き方の現れなのだ。そして我々のむかう山の向こうには何かがあるはずだ。そして常に新しいことへの挑戦を継続していく事、そこに意味があるのではないだろうか。
記事の投稿日:2010年10月12日